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イコフスキーはドリーブのような曲が書きたいと思って、3大バレエを書いたのです。
「コッペリア」は制作に何年もかかりました。いちばんの原因は、夏休みにしかリハーサルができなかったことです。振付のサン=レオンが、「ジゼル」の振付家であるジュール・ペローの後継者として(そしてプティパの前任者として)ロシアのマリインスキー劇場で働いていたためです。サン=レオンは若い頃は名ダンサーで、ファニー・チェリート(パ・ド・カトルを踊った一人。サン=レオンと結婚し、後に離婚)と共演しました。ヴァイオリンの名手でもあり、その優れた音楽性は振付にもあらわれています。ペローが、パ・ダクシヨン(演劇と舞踊の一体化)というロマンティック・バレエの理念に忠実だったのに対し、サン=レオンはディヴェルティスマンを多用し、筋と踊りをかなり分離させました。その特徴は「コッペリア」にも見られます。

悲劇のバレリーナ

当初、サン=レオンの弟子、アデーレ・グランツォフがスワニルダを踊ることになっていたのですが、彼女は重病に倒れてしまいました。サン=レオンは、児童バレエの教師として有名だったドミニク夫人のクラスで、シュゼッピーナ・ボツァッキという15歳の少女に目をつけ、主役に抜擢することにしました。1870年5月、ついに「コッペリア」は上演の運びとなりました。すぐさま大評判となり、ボツァッキは絶賛されました。ある批評家の言葉を借りれば、彼女は「カルロッタ・グリジを忘れずに嘆き続けてきたバレエファンたちの涙を乾かせた」のでした。
ところが7月に普仏戦争が勃発し、パリ・オペラ座はその歴史始まって以来初めて閉鎖されました。開花しかけたボツァッキのキャリアも中断されてしまいました。それからしばらくして、サン=レオンがオペラ座近くのカフェで心臓発作を起こして急死しました。パリが包囲され、市民が窮乏生活を強いられるなか、ボツァッキは天然痘にかかり、ちょうど17歳の誕生日に世を去ったのでした。

その後の運命

1884年には、かのマリウス・プティパの振付による版がペテルブルクで上演され、これは10年後の1894年にエンリコー・チェケッティとレフ・イワノフによって改訂されました。革命後、ニコライ・セルゲーエフがマリインスキー・バレエの主要21演目の舞踊譜をもって亡命し、マリインスキーのバレエを国外で広めましたが、「コッペリア」は1933年にヴィック・ウェルズ・バレエ団によって上演されました。経済学者ケインズの夫人としても知られるリディヤ・ロプホーヴァ(ロポコワ)とニネット・ド・ヴァロワがスワニルダを踊りました。今日、フランスとデンマーク以外で上演されている「コッペリア」のほとんどは、このプティパ=チェケッティ版がもとになっています。デンマーク・ロイヤル・バレエ団では、1896年に初演されたグラゼマンとベックの版が継承されており、当時のスタイルを見る上で参考になります。
1970年代には3つの重要な版が上演されています。73年にパリ・オペラ座バレエ団が上演したラ・コット版は、オリジナルの振付をできるだけ復元しようという試みでした。74年には、ニューヨーク・シティ・バレエのために、バランシンと、かつて名スワニルダ役として讃えられたアレクサンドラ・ダニロヴァが共同で演出しています。75年には、ローラン・プティの斬新な「コッペリア」がマルセイユ・バレエ団によって初演されました。プティ版はフランスふうのエスプリのきいた、しゃれた現代風「コッペリア」として定評を得ています。
もちろん、ピーター・ライト版も忘れるわけにはいきません。ライト版の特徴は、「ジゼル」の場合でも「くるみ割り人形」の場合でも、劇的構造がしっかりしていて合理的だということですが、「コッペリア」にもそれがあらわれています。彼は伝統的な演出を尊重し、大きな変更はあまりしないほうですから、プティ版とは対照的なあの印象的な幕切れは、「白鳥の湖」の冒頭の葬列と並んで、ピーター・ライトとしてはかなり大胆な試みといってもいいでしょう。
(すずき・しょう 法政大学教授・舞踊史家)

 

 

 

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